態度豹変
昨年末に安倍首相が靖国神社に参拝した際、韓国や中国からの批判に対して安倍首相は「話せばわかってもらえる」との発言を残した。一報でケネディ大使の遺憾表明に対しては、玉虫色の態度をとっていた。
今回、靖国神社の例大祭にあたり首相はお供え物だけして参拝はしないという、どっちつかずの対応をしたが、それは23〜25日にオバマ大統領が国賓として来日を予定しているからだという。
安倍首相が靖国神社に供物、参拝見送りへ−米大統領来日直前(Bloomberg.co.jp):
http://www.bloomberg.co.jp/news/123-N4CW6F6JIJUU01.html
国賓でなければ参拝しちゃうのか、来日しなければ参拝しちゃうのか、どちらかということになるだろう。国賓かどうかはさておき、仮に中国や韓国のトップが来日を控えていても、同様かもしれない。
でも、しばらく来ないからいいや、という類いのことなの? 「話せばわかってもらえる」はずなのは中韓だけなの? こういう態度って、外国人にはさっぱり理解不能なんだと思うんだけど。
「介護・家事にも外国人労働者」
昨日の記事
「介護・家事にも外国人材活用、国家戦略特区で先行実施も=政府会議」(ロイター 4日)
介護・家事にも外国人材活用、国家戦略特区で先行実施も=政府会議 - ロイター
このブログでも再三書いてきたが(たとえば外国人労働者と社会 - Econ少年漂流記)、この政策には賛同できない。理由は大きく分けて2つあり、日本社会の受け入れる態勢の問題と、日本人がやりたがらない仕事をやらせるという発想だ。
国際化は歓迎してよい。外国人が日本に移り住みたいのであればそれは歓迎すべきであり、共存できるのであれば理想的である。ただし、そのためには受け入れる態勢が必要である。日本の社会が変わるために受け入れるか、変わってから受け入れるのか、恐らく前者で対処してゆくしかないのだが、それにしても受け皿に問題がある。受け入れないと変わらないのはわかっているが、それでは過渡期の外国人が気の毒である。ブラジル、ペルー、フィリピンなどからの労働者の受け入れは社会に禍根を残しているし、もっと前のことであれば戦後以降の在日外国人の例からも明らかである。
外国人労働者に対する政府や社会の配慮も足りない。「ビザが切れたら帰れ」という発想は、いかにも自分と自分に利害関係のある周辺の人々のことしか考えていない。諸外国も同様の処置をとっているというのは理由にならない。労働者にも家族がいて、一緒に暮らしたいと考えていることに思いを巡らすのは、そんなに難しいことではない。
上記のロイターの記事に関しては、介護・家事などは日本の労働市場でも労働供給が需要を上回っている(つまり人手が足りない)分野であり、そこを安い外国人労働者で穴埋めしたいということになる。発想は単純だが、下記のような根本的問題を孕んでいる。昨晩ワールドビジネス・サテライトでもこの件について解説していたが、高齢化と年金のバランスの問題があるから仕方がないとか、犯罪率が高まるとかいうコメントだった。断片的だし、自己を中心に利害関係のある近い同心円のことしか見ていない、見識も配慮もない言葉だし、もし「テレビ東京=日経新聞=経団連」という文脈で否定するわけにいかないのであれば、媒体として失格だ。
そして介護も、たぶん家事も、極めて高度な「日本語による」コミュニケーション能力を要する。多くの日本人にとっても、特に介護による心労は避けて通りたいものであり、だからこそ労働需給にもギャップがある。これはフィリピンやインドネシアから招いた看護師が定着しないのと同じ問題である。失敗から学んでいない。もし言葉が通じない方が心労が少ないからというシュールな理由で呼び寄せるのであれば、それはそれで苦笑するが、やっぱり外国人には気の毒だ。
いわゆる「3K」の仕事を有期外国人労働者に託せば済むだろうという安易な発想は、社会にあえて階層を作り、階層と民族を固定化させ、職業も固定化させる(記事の政策はこの発想を基にしている)。そうなれば、いつか来た苦難の道をまた歩むことになる。
異次元ポケット
ドラえもんはアイディアの宝庫!
息子の本棚にあったドラえもんの道具百科をチラッと見ていたら、イケそうなものがたくさんあった。
- 作者: 藤子 F・不二雄
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「吸音機」って、ノイズキャンセリングのヘッドフォンに活かされてんじゃん。
「光ファイバーつた」って、今の時代ならテレビに限らずもっと汎用性高いよね。街中の電線が蔦になってもいいかも。
と思ったら、フェイスブックにTaka Kawakamiさんからコメントをいただいた。空気クレヨンぽいのはもうすぐ!
The 3Doodler - The World's First and Best 3D Pen
自動車製造のモジュール化
というのは経営者や経営学者の目線からは素敵なことなのだろうし、それによって発展途上国の乗用車需要に応えているという点でも意味があることなのだろう。
トヨタのクルマづくりは“個別対応”から“共用化”へ(2014年2月15日、BLOGOS片山修):
トヨタのクルマづくりは“個別対応”から“共用化”へ
しかしこれは、自動車のユニクロ化だよね? コストの削減は企業経営においては問答無用で行わなければならないことだけれども、自動車業界の統合再編が多く行われる中で全世界で車が没個性化し、つまらないものだけが市場を席巻し、そうでないものはboutique manufacturerのような感じで少量生産し、やたら高額になるのだろう。しかも、ユニクロなら繊維産業に参入障壁はないが、自動車は政府の厳しい認可が必要となるから、市場に任せれば受給の関係で最適化される、とは言えないだろう。
現実、かつてはあんなに楽しい車をたくさん作っていたフォルクスワーゲンも、今や没個性甚だしい。
各社が生き残るためにはどのような「長期的」戦略をとるべきか、考えるべきだろう。自動車の需要は、決してそんな定式化されすぎたものとは思えない。
特攻
昨日、中学・高校時代の同級生に声をかけてもらって、元特攻隊員の粕井貫次氏の講演会に参加した。
御年90歳でさすがに耳が遠く、また受け答えもスムーズとはいかなかったが、ご自身の記憶の中から言葉を発するときは起立して背筋を伸ばし、たいへんよく通る発声で語りかけられた。90分で終わる予定が、気付けば120分以上経っていた。実にかくしゃくとした方で、体は小さく温和な表情ながら、すごみのようなものを感じた。
粕井氏は19歳の時に海軍に入隊し、終戦時21歳のとき、8月10日には特攻待機30分前の状態を経験されている。その時の様子をインタビュー形式て記録しているのがこちらの本:
- 作者: 「特攻最後のインタビュー」制作委員会
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イデオロギーの面などは聞き手の置かれた状況、解釈、世相、価値観などによって異なるし、そこを議論する必要はなかろう。その現場にいた人の心境などをダイレクトに聞く経験は、その中身が戦争とか平和とか、民主主義やら全体主義やら社会科学的にどうだとかいう理屈とは別次元のものという印象をもった。仰るには、特攻の経験のおかげで、それ以外の人生経験の部分でも他者の数倍も充実したという。若くして死を受け容れそれと対峙したことで、生がより際立ったのだろうと、死の恐怖も知らない若輩の私には感じられた。
今の日本への強烈な諷喩と捉えた
読書でこれだけの絶望やら敬意やら感情的に高揚してしまったのは、実に久しぶりだ。しかも、自分の置かれた社会・国についても考えさせられた。
「白バラは散らず」インゲ・ショル著
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印象的だったところ:同じく処刑されたフーバー教授による政権に向けての私的メモ(114〜115ページ)
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「予がドイツ国民として、ドイツ大学教師として、かつ政治的人間として、素朴なる言葉を通じ、暴力行為のためにあらずして、政治的生活に現存する重大なる障害への道徳的認識のためであった。(中略)道義的席になる各人は予らとともに声を発し、正義をおびやかす単なる権力と、道義的善意をそこのう単なる恣意との支配に抗するであろう。(中略)あらゆる外的合法性には最終の限界が存し、ここにいたりては合法性も非真実、非同義と化する。すなわち、合法性が惰性の扮装と変じ、明白なる正義侵害に抗することをおこたるときである。一国家がいかなる自由意見の発表をも抑圧し、いかなる批判も、またいかなる改善策をも、『大逆未遂罪』として世に恐るべき刑に付するとき、それは『健全なる民族心』のうちになお生き、かつ死することなき、不文法を破る国家にほかならないのである」
「予は一個の目的を達した。かかる警告と警声を私的小討論会にあらずして、責任ある最高判定の場に陳述することこれである。予はこの警告、この衷心よりする復帰の嘆願に、声明を賭けんとする。予は、わがドイツ民族に自由を返却せよと要請する。われらは鎖につながれし奴隷として、短き生をながらえんことにあまんずるものではない、よしそれが、物資過剰の黄金の鎖であろうとも。
貴下らは予の教授たるの地位および権利、また『全優』の成績に彰せられし学士号を剥奪し、予を卑陋(ひろう)きわまる犯罪者に列せられた。大学教師、みずからの世界観および国家観を率直・勇敢に告白すべき者の内的尊敬は、いかなる大逆罪告訴も予より奪いえぬのである。予の行為と意欲は、歴史の仮借なき進行により義とせられるであろう。予は磐石の期待をこれによせている。予はこの義とする精神的諸力が、時におよんで予みずからの民族の胎内より生まれいでんことを、神に願うものである。予は、内奥の声に従い行為せざるをえぬごとくに、行為した。予はその結果をみずから背負いヨーハン・ゴットリープ・フィヒテのかの美しきことばに倣わんとする。
かくて汝の行ないは、
汝と汝の行為のみに
ドイツの運命ことごとくかかり、
責任は汝のもののごとくあれ」
*****
(引用しすぎかな?もしそうならご一報ください)
さて当のドイツの人々は、少なくとも自らの行動と向き合った。国際社会からもイヤというほど圧力を受け続け、いまだにそれは続いている。それはもちろん、それに見合うことをしてしまったから。
私たち日本はどうだろう。戦勝国の事情による戦後処理の国際法廷、「国體維持」と冷戦や日米同盟などに伴う「大人の事情」、実質的一党独裁、日教組による教育、大衆文化、さまざまな背景から責任の所在が曖昧になったままである。いかにも構造的に「日本的」だ。だから左も右も、自虐史観も極右史観も、議論がいつも予定調和的に決まった結論になっている。それは事実と向き合うこととは異なる。
ルールを乗り越えることと生きること
バッハはそれまでのバロックの時代の音楽という宮廷音楽のルールを熟知しつつ、極めて精巧な対位法を多用するなど、その作風はそれまでの宮廷音楽の常識では考えられなうものであり、それゆえに必ずしも当時多くに受け容れられたものではなかった。バッハはバロックから古典派への時代の潮流を作った人だった。
モーツァルトも、ソナタ形式を独自に作り上げた一人だし、それまでのフーガや対位法的なものからよりホモフォニーなものへと移行させた。また、映画「アマデウス」にも描写があったが、それまでの宮廷用のイタリア語によるオペラを初めてドイツ語で作り上げ、波紋を広げた。
ベートーベンほど、古典派からロマン派への過渡期に生きてその作風の変化を見られる作曲家は少ないのではないか。初期の曲を聞けばホモフォニックで、少し無骨なモーツァルトかハイドンかと思わせるものも多い。しかし中期から後期に渡り、その作品にはフーガや対位法を用いて過去への回帰を見せる一方で、哲学・文学・美術などの領域との係わり合いもあって確実にロマン派への流れを作っていった。その作風はなかなか社会には受け容れられなかった。
ブラームスやショパンはバッハの対位法に敬意を表し、過去の偉業を習熟したうえで数々の名曲を残した。ドビュッシーは調性音楽そのものの枠組みを乗り越えて数々の作品で色彩的な要素を取り入れることに成功し、シェーンベルクは12音技法を作り上げた。しかしその当のシェーンベルクだって、ブラームスのピアノ四重奏曲第1番のようなロマンチックな調性音楽をオーケストラ版に編曲したりしているのだ。ラヴェルにも似たようなことが言える。
人は子供の頃から、様々なルールを押し込まれる。そして多くの人は、ルールを知れば知るほどそれを破ってしまいたいという本能に駆られることがある。過去4年間は関西の大学生と一緒に仕事をしてきたが、学生の多くは出る杭になることに憧れを抱いていたりする。しかしそのほとんどは、大学を卒業し社会に出ると、少なくともしばらくは出る杭になろうという思いを封印したりする。たぶん、未知の場所でルールを習得することに精一杯なのだろうし、それを習得することの意味を理解しているからなのだと思う。そのほとんどは、おそらくベートーベンやシェーンベルクのように後世に名を残すような偉業を成し遂げないだろう。そんな人が数多いたら、もうそれはベートーベンやシェーンベルクではなくなってしまうから。
しかし、私たちは生を授かって生きてゆく以上、自分が生きた証しを残そうとする本能がある。生きた証しを残すということは、たとえほんの少しであってもその人が世の中に影響を与えるということである。子供を育てたり(これが一番の社会貢献!)、仕事で実績をあげたり、コミュニティのために尽力したり、形は様々だろう。
一部の若者(それと私のように決して若くない者も含めて)に見受けられるのは、既存のルールは社会の癌だと思い込んで、それを変えたいと思っているのに、それに対峙しようとしないケースだ。しかし、バッハもベートーベンも、ブラームスもドビュッシーもシェーンベルクも、みんな既存のルールを回避したのではなく、乗り越えていった。批判も結構だが、まずは受け容れて、行動し、生きる足跡を残そう。
芸術家よ! 語るな! ただ一つの息吹だにも汝の詩たれかし(ゲーテ)