今の日本への強烈な諷喩と捉えた

読書でこれだけの絶望やら敬意やら感情的に高揚してしまったのは、実に久しぶりだ。しかも、自分の置かれた社会・国についても考えさせられた。

「白バラは散らず」インゲ・ショル著

白バラは散らず―ドイツの良心ショル兄妹

白バラは散らず―ドイツの良心ショル兄妹

印象的だったところ:同じく処刑されたフーバー教授による政権に向けての私的メモ(114〜115ページ)

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「予がドイツ国民として、ドイツ大学教師として、かつ政治的人間として、素朴なる言葉を通じ、暴力行為のためにあらずして、政治的生活に現存する重大なる障害への道徳的認識のためであった。(中略)道義的席になる各人は予らとともに声を発し、正義をおびやかす単なる権力と、道義的善意をそこのう単なる恣意との支配に抗するであろう。(中略)あらゆる外的合法性には最終の限界が存し、ここにいたりては合法性も非真実、非同義と化する。すなわち、合法性が惰性の扮装と変じ、明白なる正義侵害に抗することをおこたるときである。一国家がいかなる自由意見の発表をも抑圧し、いかなる批判も、またいかなる改善策をも、『大逆未遂罪』として世に恐るべき刑に付するとき、それは『健全なる民族心』のうちになお生き、かつ死することなき、不文法を破る国家にほかならないのである」

「予は一個の目的を達した。かかる警告と警声を私的小討論会にあらずして、責任ある最高判定の場に陳述することこれである。予はこの警告、この衷心よりする復帰の嘆願に、声明を賭けんとする。予は、わがドイツ民族に自由を返却せよと要請する。われらは鎖につながれし奴隷として、短き生をながらえんことにあまんずるものではない、よしそれが、物資過剰の黄金の鎖であろうとも。

貴下らは予の教授たるの地位および権利、また『全優』の成績に彰せられし学士号を剥奪し、予を卑陋(ひろう)きわまる犯罪者に列せられた。大学教師、みずからの世界観および国家観を率直・勇敢に告白すべき者の内的尊敬は、いかなる大逆罪告訴も予より奪いえぬのである。予の行為と意欲は、歴史の仮借なき進行により義とせられるであろう。予は磐石の期待をこれによせている。予はこの義とする精神的諸力が、時におよんで予みずからの民族の胎内より生まれいでんことを、神に願うものである。予は、内奥の声に従い行為せざるをえぬごとくに、行為した。予はその結果をみずから背負いヨーハン・ゴットリープ・フィヒテのかの美しきことばに倣わんとする。

 かくて汝の行ないは、
 汝と汝の行為のみに
 ドイツの運命ことごとくかかり、
 責任は汝のもののごとくあれ」

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(引用しすぎかな?もしそうならご一報ください)

さて当のドイツの人々は、少なくとも自らの行動と向き合った。国際社会からもイヤというほど圧力を受け続け、いまだにそれは続いている。それはもちろん、それに見合うことをしてしまったから。

私たち日本はどうだろう。戦勝国の事情による戦後処理の国際法廷、「国體維持」と冷戦や日米同盟などに伴う「大人の事情」、実質的一党独裁日教組による教育、大衆文化、さまざまな背景から責任の所在が曖昧になったままである。いかにも構造的に「日本的」だ。だから左も右も、自虐史観も極右史観も、議論がいつも予定調和的に決まった結論になっている。それは事実と向き合うこととは異なる。