ツィメルマンの演奏会

11月21日、クリスティアン・ツィメルマンのピアノリサイタルに行くことができた。初めてツィメルマンのライブを聴いたのが大学時代の93年春なので、もう22年間以上この人の演奏を聴きつづけていることになる。

東京でもNYでもジュネーブでも関西でも、これまで何度ライブに行ってもほぼ必ずと言っていいほど度肝を抜かれてきた。今回は、日々の生活がこれまでになくバタバタしていて、こういう時に芸術に触れても感度が鈍っているのではないかと危惧しながら挑んだ。

端的に言えば、そんなことは杞憂だった。この感慨を言葉にするのは難しいし、音楽を語ること自体が野暮だという私の若いころからの思いは今も変わらないが、それでも言いたくて仕方がない。それだけ感情的な起伏をあの2時間で経験して、自分だけで抱えていられないのだ。子供じみているけど。

シューベルトの最後の2つのソナタを持ってくるあたり、相変わらず本気プログラム。ツィメルマンは一時期ガーシュウィンとか弾いていたけれども、あれは正直似合ってなかった。この2つのソナタ、93年の初めての時が21番、1〜2年後に20番を聴いた。特に初めての21番は印象的で、若干20歳の私がこのライブを聴いてペーターズ版のソナタ集を池袋のヤマハで買って、ピアノの先生のところに持って行ったりした。結局1・2楽章で挫折しちゃったけど。

シューベルトって、様式はきわめて古典に忠実で奇をてらわずも、とても多彩な表情を持っていて、長調なのにどことなく悲しげで、つい背筋をピンと伸ばして聴いてしまう。

この日のシューベルトはと言うと、まずは久しぶりに聴いて、最初はツィメルマンらしいキレキレな演奏にこころなしか違和感を覚えた。20番の1楽章は、あんまりキレキレは似合わないかなという印象だったが、2楽章以降もツィメルマンは徹底的に世の中のシューベルト像に挑戦しまくった感じだった。2楽章ではとことん暗くデリケートに、3楽章ではピアニズムの鬼と化して、叙情的な4楽章でもさほど叙情的にはなりすぎず、ツィメルマンにしか出せないtuttiの音で会場を圧倒した。ツィメルマンtuttiは、立体的という表現は簡単だが、内声もしっかり鳴らしつつもベターっと汚くならない独特なものだ。この音を出すピアニストに出会ったことはない。

キレッキレのシューベルトながら、圧倒的に研究しつくしてシューベルトに挑戦していることがよくわかる。時には低音部で楽譜にない音を加えたりもするが、解釈は楽譜の枠を出ることは基本はない。逸脱はせずに、私たちが常識だと思うシューベルトの概念を木端微塵にするのだ。しかも徹底しているから、非の打ちどころがない。

21番、1〜3楽章はいわゆる正統派でもあった。個人的に思い入れのある曲だし、このまま時間が止まってほしいと思いながら、じっと聴いていた。
と、4楽章ではいきなりやってくれた。第1音、Gのオクターブ。

私のペーターズ版ではフォルテピアノの表示である。ツィメルマンがここを弾いた瞬間、一体何をしたのか、気になってしょうがなかった。打鍵の瞬間ははっきりフォルテで、直後からプーンとほとんど倍音を鳴らすような聴いたことのない演奏だった。
離鍵した直後にペダルを踏んで残響を鳴らしている?ハーフペダル?二度踏み?今日ちょこっと家でやってみたけど、おそらくハーフペダルなのではないかな?何度も出てくるこの「プーン」で、自分特注のあのピアノを自在に操って会場を楽しませていた。

4楽章は一気にキレッキレなシューベルトを聴かせた。こんなにエキサイティングな空間にいられたことの喜びや、この演奏会が終わってほしくない惜しい思いとか、久しぶりに高度な芸術に触れられた感動とかで終演前くらいから涙が止まらなくなっちゃって・・・こういうことを書くと一気に興ざめになるのは知りながら。