なぜ私は学生の目線でいるのか

フルタイムで大学教員になってまだ3年ちょっとの私なりのアプローチであります。大学教員の大多数が私みたいになってしまっては良くないことでしょうが、そうは絶対にならないでしょう。なぜなら大学教員たちも皆、バラバラの主観でものを見ているからです。

私が内外で人々と接してきて感じるのが、社会だとか共同体だとかいうもののルールや規範などというものは、多数の人間の主観が入り混じった結果築かれていったものだということです。哲学で言うところの間主観性、社会科学を分析する手法としてはいわゆる構築主義などがそのような観点から社会を見るようです。

こう考える理由は、特に前職や前々職での多国籍チームで働いていて、構成員がそれぞれてんでバラバラな考え方であることがよくあったからです。ところが、多様な構成員たちによってでも合目的に規範のようなものできあがってゆき、どちらの集団も世の中に普遍的価値を創造していたと思います。そのためには構成員が自ら考え、自ら発言し、集団で議論を重ねることになります。私が考える民主主義の価値とはこういうものであり、これを前提としたプロセスこそ好循環な社会システムを構築するのだと考えています。多様性が力を発揮する現場を身をもって体験することができたのは幸運でした。

こういう社会では、ものごとは必ずしも理屈(正確には自分が持つ主観的な理屈)通りにいきませんし、昨日の常識が今日の非常識だということもあり得ます。ところ変われば規範が変わるのは当たり前のことです。ケンカも、誹謗中傷や嫉妬も、戦争も、徒党も、合意も、友情や結婚も、全てが個人や集団が主観的であるから起こるのであり、全ては人間同士がけん制したり衝突したり融和したりしながら歴史は脈々と流れてきました。

もし現時点での集団内の合目的な規範が「A」であることを、ある一人の学生が主観的に「B」であると主張すれば、その学生はまずは壁にぶつかるでしょう。しかしその学生が「B」であることに確信しており、それを集団に説得できれば、その学生は一人の構成員として集団の規範を「A」からほんの少しだけ「B」に近づけることができるかもしれません。社会というものはそうやって構築され、変化してゆくということです。

社会や共同体をこのように捉えれば、大学の教員が社会のルールなどについて教える必要は必ずしもなく、学生自身が社会の構成員として自ら考え、自ら発言し、集団で議論ができるように促すことこそが重要なのだと思うのです。間違いなく言えるのは、何ごとも失敗しないとわからないのですから、大学教員が「答えはこうである」と言っても、ライブで直接人間同士が接するうえでの教育的効果は薄いのです。それなら、書籍やインターネットで簡単に答えを見つけることができるからです。そもそも「答え」自体が多面的で流動的ですから、学生自身が社会を見る目を養い将来自立できる大人になってもらうことしかできません。

だから私は、世界の見方がどのように変わってきたかを意識しながら、若いころの自分を仮構して学生に伝えられるように心掛けています。そうするのは、大人の社会も学生の社会も子供の社会も、日本の社会も欧米の社会も途上国の社会も、結局どれも優劣をつけられるようなものではないことを日々感じてきたからです。批判すべきものは批判すればいいのです。そして自分の経験上も共感できるのは、多くの学生が共有している、いわゆる「大人」の社会に対する不要な畏怖の念です。この畏怖の念こそ、教育現場・部活動・社会における上意下達の一方的な関係から構築されてきたものでしょう。それが不要だということを身をもって提示することが、特にビジネス出身の教員である私の役目だと信じています。私ごときでも、ひとまずどうにか生きていることを示し、何ごともとにかく行動を起こすことだと暗に伝えているつもりです。

学生諸君、私が皆さんに友達のように接することで、勘違いをしてはなりません。私は皆さんがどんな相手に対しても敬意をもって接するだろうという、捨て身の性善説に立って皆さんと日々接しようと努めています。皆さんを信じているからです。