「成長はいらない」のか?

昨日のトクヴィルの言葉の含意には大いに賛成する一方、一部の経済評論家が言うように、ほんとうに「成長はいらない」のだろうか。

私の知る「成長いらない」論のほとんどは、金で買えないものがあることとか、GDPは万能な尺度じゃないこととか(それは事実だが)、量よりも質であるとか、トクヴィルの論のように皆がひたすら走り続けて蒐集し続けるシステムの限界だとか、それぞれ各論ではその通りだと思うことを並べ、帰納法的に普遍化させようとしている。彼らに言わせれば、デフレの元凶は過剰供給側にあるという。

今日(2013年4月9日)のオイコノミアをチラ見しての雑感だが、負けないために競わないという選択肢自体は、ミクロでは当然合理的判断としてあり得る。これが共同体全体に広がれば、当然その共同体は沈下する。

そして上記の当の経済評論家自身も、個別のミクロなinterestの集合体がマクロで利益をもたらすとは限らないことは知っている。

論理が破たんしている。どうしてこうなるのだろう。

こう主張するのは、以下の2点の理由が考えられる。
1)悲観的趣味で共同体の構成員みんなを巻き込んで沈んでしまいたい。
2)個別には経済合理性とは無関係に自分の価値観をお節介にも主張しつつ、マクロでは解決策が見えにくいから、ひとまず大きいものとか権威とかに噛みついておく。
3)前者の各論を主張することに目先の利益があり、後者の総論をウヤムヤにしたうえで主張している。

どれもイヤだ。勘弁してくれ。

成長は、やっぱり最大公約数的には必要だ。今先進諸国が行き詰っているのはパイをどう広げるかに悩んでいるからだ。ソローの成長曲線で言えば上昇の幅が逓減していくからだろう。パイを広げることで格差や貧困など解決できる問題がたくさんある。限られたパイの奪い合いでは不毛な政治抗争となる。ましてやパイが縮むことを推奨するなど考えられない。よって、「成長が要らない」というのは、個人的または特定のグループによる価値観の押し付けということになるだろう。

価値観は多様であるべきである。特定の価値観を押し付けがちな人ほど、異なる価値観を排除したがる。