10年、半年、2か月

今日はたぶん、そこらじゅうのブログやら新聞記事やらテレビやらでこの話をしていると思う。私もご多聞にもれず、やっぱりそのことを書こうと思う。いつもの私なら、生来のへそ曲がりのせいもあって、みんなが触れることには避けるよりも気に留めないのだが、今日という日は個人的にも考えることの多い日だからだ。

東日本大震災津波の様子と一連の原発への社会が抱く不安を耳にするにつけ、私はこの半年間、10年前の今日起きた事件とその後のことを都度思い返した。自然災害とテロ事件という違いはあるが、日常が破壊され、社会が不安を共有し、絆を強調したという点において、共通したものを感じた。テロ事件数日後にユニオンスクエアに行くと、周囲にいた他人と不思議と共感している気分になった。日々無用な緊張とともに生活している中で、そこは私にとって慰められる場所だった。その時私は、外人だった。

現実に被害を受けた街の人々からは、報復などという発想は浮かんでこなかったに違いない。ニューヨーク市民の多くはイラク戦に反対し、すさまじい規模の反戦デモが行われた。対テロ戦争は、主にワシントンの論理で展開されていった。また、テロ事件後にはそこらじゅうに目障りなほど星条旗が掲げられていたが、その多くがラテンアメリカ系やアフリカ系など、マイノリティが自分もアメリカの一員であると訴えかける性質のものだった。私と同じような慰めの行為だったのかもしれない。

以後のアメリカ政治の選んだ道は、残念だった。いくらニューヨークの市民が反戦デモを行っても、それはおそらくベトナム反戦ほど熱を帯びたものではなかったに違いない。人々は対テロ戦争へのムードに、なんとなく流されていった。ワシントンでも、当初はイラク戦に反対していた議員たちが、最後は全員一致で賛成にまわった。

コロンビアでは、毎日の授業でテロ事件とその因果、その後の国際政治などについて授業で触れられないことはなかった。イスラム系の学生とユダヤ系の学生が口論し、それに触発されてか台湾の学生と中国本土の学生が白熱の議論をし、私たちも韓国の学生たちと歴史認識などについて意見を交わした。コンゴ出身のルームメイトとは、ただでさえ宿題で毎日忙しいのに、毎晩午前2時3時までこのテロのことなどについて議論した。彼にとっては、アメリカはルワンダブルンジコンゴで何百万もの命が奪われている惨事を傍観した許しがたい国である一方、難民だった彼を救い大学・大学院まで勉強する機会を与えてくれた恩人でもあった。今やアメリカ人となった彼は、アメリカへの複雑な思いがある。

それが、アメリカだ。ダブル・スタンダードはもちろんあるし、ときに言論の自由だって疑わしい。それでもアメリカが抱える多様性とか多面性は、所得格差や差別などの根源とはいえ、やはり羨ましい。貧困から超富裕層まで、極右から極左まで、黒白黄赤、玉石混交でめちゃめちゃだけれども、もし構成員みんながきちんと議論できるのであれば、その社会は包容力があって活気があるのだろう。しかし現実はそうではなかった。

日本はどうか。政治的にも経済的にも社会的にも、苦境のタイミングで今回の震災は起きた。震災によって日本がどう変わるか、それは私たち国民の自由意思にかかっていると思う。今日のような記念日は、悲劇を思い返して嘆くのではなく、犠牲者の死に報いるために復興への意志を改めるためのものだ。偏狭なナショナリズムを押し付けたり揚げ足取りをしている場合じゃない。総論はわかっているくせに、各論で意に反することをする人がいかに多いか。

私自身はどうか。この10年間、ニューヨーク・ジュネーブ・京都の順で拠点を変えてきたが、9.11のテロ事件に始まり、ウォール街サブプライムバブルの崩壊の現場を体験し、ダボス会議の自己演出に腐心し、京都のサヨクに手をこまねいてきた。私はいったい、何をしてきたのだろう。今日で父の死から2か月、どうやってその死に報いればよいのだろう。


最近の本。

わたしが死について語るなら

わたしが死について語るなら

死ぬことと生きること

死ぬことと生きること

土門拳のリアリズムに、鉄拳パンチを食らった気分。